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2015/11/27 (Fri) 19:11

神様が天のしるしをくれました

水曜日、今まで超ハッピーな気分だったのに
突然がくーーーーっと悲観的モードに入ってしまい
口から出る言葉がみんな否定的になって落ち込んでしまった。

それを引きずり、木曜日の出勤時間、
大雨の中で傘を駅に忘れたり電車乗れなかったりも重なって
「どんなことがあっても感謝しなさい」の御言葉が守れそうになかった。

大雨が、駅の周りの草木を濡らしている姿を見て
(私の心は渇いてる。今すっごい渇いてるんだと思う。
主の恵みの雨で、あの葉っぱみたいに潤いたい。
落ち込んでも感謝したい)
そう思って、素直に神様に祈ったんです。

「神様。私は今、感謝のお祈りが出てきません。
私はまずあなたから慰めてほしいと願ってます。
感謝ができない私を慰めて下さい」

こう言いました。
すると、雨がやんで、辺りが心地良い静かな空間になりました。
私はそう言えばと、毎日読んでいるディボーションアプリを開き
今日のみ言葉を読みました。
その日の御言葉はピリピの4章6節でした。

『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、
感謝をもってささげる祈りと願いによって、
あなたがたの願い事を神に知って頂きなさい』


数ある御言葉の中で、今日私にこの御言葉が与えられた。
主は、リアルタイムで私を慰めてくれる方だと
感謝がわき起こりました!
大雨が止むのと同時に、私の心は潤っていました。
神様が、草木よりも私の心を潤すのが先だ、と
優先してくれたんだと感じました。
主の慰めによって、その日、沢山の感謝ができました。

ありがとう神様(*^^*)
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2015/11/10 (Tue) 02:20

心を見て喜んでくれる


職場での証です♥

職場は児童福祉です。
今の場所で働いて1年を迎えました。(福祉歴は1年半)
「子どもに関わる仕事を与えて下さい」
この祈りが具体的に、的確に答えられたのです。
0から初めて、何も分からない状態で、
沢山の失敗を繰り返しながら
子どもたちの成長を見守ってきました。

ある日、職場のおじちゃんに言われました。
「女らしくない」って(^_^;
理由は、私の職場での態度にあると思います。
男の子と遊ぶ時は汗をかきながら、
あるいは髪を乱れさせながら遊びます。
女の子と遊ぶときも、中学生をおんぶして
くるくる回したり、大きな声で一緒に合唱したり。
拳銃で撃たれた時は「ヴッ」といって大げさに倒れます。
大人の女らしい態度では子どもと接しません。
私のスタイルは、子どもと同じ目線で向き合う、でした。
専門的な知識が無い私には、この作戦しか思いつかなかった。
私なりに、子どもたちに「自分は愛されているんだ」という
実感を得てほしいと願う故のスタイルでした。

大人から見れば、私の仕事の仕方はあまりに不器用で、
品がなくて、ピエロみたいに映っているかも…と
自分でも薄々思っていましたので、
おじちゃんに「女らしくない」と言われた時
(やっぱり!)と不快感と同時に納得感がありました(笑)
夜、ついさっきですが…
このことを思い起こして恵まれました。

(私は自分の職場での態度を恥と思わない。
子どもたちを愛してるから、笑って帰ってほしいから
髪が乱れても遊んであげるんだ、
化粧がとれても汗をかいて公園で一緒に走ってるんだ。
私の心を知っていて下さる愛の神様は、
私の仕事ぶりを大いに喜んで下さっている*^^*)

そう心から思えたのです。(聖霊様からの悟りというのかな)
どんな雑用であっても、主に感謝して取り組めばそれは礼拝になります。
仕事をしていて(この仕事でどう神に栄光をお返しできる?)
疑問がありましたが、おじちゃんに言われた一言で解決しました*
「女らしくない」は、職場で礼拝が捧げられている証なのです。

…でもまぁ、やっぱり少しは女らしくしねぇと…
いや、しないとな♪っとも思いました(笑)
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2015/03/20 (Fri) 23:03

ある日の午後。

謙虚さは、『弱さ』からきます。

最近、自分の『弱さ』から恵みを受けます。
おかしな話でしょうか、弱い事が分かるたびに、感謝です。
人は弱いから他人を見ます。
何でも出来る強い人は、「頼る」ことをしないので、独走します。
しかし弱い人は、打ち明けたり、手伝ってもらったり、対話を望みます。
自分の弱さに気づいた時、そこからドアが開く事の方が多いって事と…、
目の前の人たちへの感謝も何倍にも増すんだという事。
これをここ数日実感しています。

神様に祈る時、熱く祈れる時って、
自分が苦しさを感じている時ばかりでした。
それが辛かった。本当はもっと、感謝の祈りの方が涙を流して
熱く祈りたいのに…気づけば私はいつも「辛いです、苦しいです」の祈りでした。
でも苦しい祈りは、「弱さ」を自覚出来ているからできる祈りなんだと気づいた。
このとき、浮かんだ御言葉があります。
コリントⅡの12:10『〜私が弱いときにこそ、私は強いからです。』
私の弱さは、私を強くすると、神様はアドバイスして下さいました。
何故強いのか?なぜなら、愛の神様が私と共におられ、導くからです。
神様は『歴史』の主管者。その神様が愛を持って、
私の歴史を築いて下さるのだと思えば…どれほど心強いでしょう。
前も書いたけど、山も谷も無いラブストーリーなら、3分で終わるんです。
私たちの人生は山あり谷ありなので、弱さを自覚する事をしないと
いつまでもエンドロールまで辿り着けない映画になってしまうですね。

弱さを誇って良いと気づけた恵みは大きかった。
ようするに、まとめると。
弱さは謙虚さを、弱さは感謝を生むのだ。という事に気づけた話。
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2015/01/24 (Sat) 21:56

自己紹介してくれた神様。


神様を見失っても、私が神様に帰りたい。と願うと、

また見つけ出してくれる父なる神様を電車の中で体験した今週の出来事です。


今週は、仕事して帰ってきたらすぐ寝て…

祈りはありがとうと悔い改めで短く終わり、あっという間に気づいたら金曜日でした。

電車の中で「御心がなされますように…」と祈りを心の中で言っていた時に、

ふと(神様の御心ってなんだ。神様ってどんな方だったっけ)分からなくなりました。

この時の私の頭の中は仕事の事など、雑念が行き交う渋谷のスクランブル交差点のようでした。

神様がどんな方であるのか見失ってしまうと、御心に叶う為に動けません。

同時に、ゆだねる心、へりくだる心さえも蝕まれて、自分勝手に歩き出してしまってました。

(今の自分、やばいんじゃないかな。)

電車の中でしたので、心の中で聖霊様にお願いしました。

(聖霊様、助けて下さい。神様がどんな方だったのか、もう1度理解させて下さい)

すると、すぐに、「愛」という言葉が浮かびました。

(そうだ、愛なる神様だった。ふむふむ、それで?)

そのあと、愛である神様が、私を愛しておられる事、愛は『赦し』であること

ヨハネの3:16を思い起こさせて下さった事により、再確認しました。

ヨハネの3:16のあと、とんとんと最後にヨハネの4:1が流れてきました。

『あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい』

私の頭の中では雑念がパンクする位飛び交っていて、もはや聞き取れない雑音でした。

でも、神様は私を愛してくれて、あらゆる私の犯してきた罪を赦してくださったんだ。

と、思った時に、聞き取れなかった頭の中の雑念たちの正体が次々に分かったのです。

「あのこと」「そのこと」「あん時のこと」…etc

私が主にゆだねる程ではないと軽くみていた出来事や、

主の御名で赦そうと努力もせず放置していた出来事達でした。

小さな出来事が「ちりも積もれば山となる」原理で、溢れ出してたんです。

「主にゆだねる程でもない」物なんて無かった!全部神様にゆだねるべきだった!!

電車の中で撃沈してしばらく口をあんぐり開けてしまいました。(笑)

悔い改め、ゆだね、良いモノに変化される事、栄光帰せることを期待しますと、

私は重荷を下ろして職場に向かう事が出来たのでした。

…。

この経験から、神様は聞けば答えて下さる方だということ。

神様は私(たち)を愛しており、赦してくださる方であること。

どんな小さなことも大きなことも、ゆだねてよい方であること。

が、分かりました。

あと、悩んだり、神様を見失う経験は、必要な過程だという勇気も頂きました。

平和ボケでは自分が弱い者で、生かされている者であるって、

つい感謝を忘れてしまいますから。

不思議なもので、金曜の祈祷会でも、メッセージはそんな内容でした。

…生きてらっしゃいますよ、本当に。神様って。
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2014/12/28 (Sun) 18:51

振り返り。

今年最後の礼拝が終わり、みんなでお茶を飲みに出かけて、さっき帰ってきました。

今年ももう終わりですね。今年はどんな年になりましたか。

私はね、今年がクリスチャン生活の中で初めての苦しい年でした。

牧師先生や私を伝導した友人の、

「クリスチャンになったら必ず超えなきゃいけない苦い時期があるんだよ。」

この言葉と励ましで、信仰を諦めずに持ち続ける事が出来ました。

何より、祈りで支えられました。主は生きておられます、実感しています。

クリスチャン生活1年目は、「苦しみ」が無く、ただ感動、ただ嬉しい状態でした。

しかし2年目の今年は、私は苦しかった。

何が苦しいって、御言葉に従えない自分との葛藤や、クリスチャンにも色んな方がいて

価値観の摩擦の経験をして、傷を受けた事。

あと、お祈りというものを毎日するようになってゲシュタルト崩壊に近い錯覚に合い、

神様に向かってではない独り言のような祈りをしていたり、聖霊の導きに従えない時期の苦さ。

それと、「ゆるす」という愛を受け入れるまでに、時間がかかりました。

今年の後半はこの「ゆるす」事で苦しみました。

でも、この苦しみがあったからこそ、クリスチャンになれて良かった!!という

心からの喜びが『今』私の中でわき起こっているんです。

だってクリスチャンは、赦せない相手を恨んで終わるのではなく、

「あの人を愛することができますように。また、祝福されますように。

この出来事を益に変えて下さい。」

と、相手の為に優しくなれるからです。私は、23歳になってやっと、

腹立たしい事や苦い事から逃げないで、祈りで立ち向かって、乗り越える事が出来ました。

ハレルヤ。

ハレルヤ。

感謝します。心から。

苦さで喜びを得られた経験は、これが初めてでした。

クリスチャン生活3年目はどうなるんでしょう。

希望があります。

ハレルヤ。



また最後に。

きっと今年も、私の言動で、私の知らぬ間に傷ついた方もいたでしょう。

私も悔い改めています。神様との和解。隣人との和解。
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